別冊アフルイカ|素敵なアフリカを伝えられたら 柳田依子







魅了されるものに理由などありはしない。
あえて言えば、そこにアフリカが在ったから。
今、アフリカは、私の中に滲みている。
人と文化に出逢い、導かれ辿りついた
素のままのアフリカをまるごと伝えていけたら。







なぜアフリカ?

なぜアフリカなのか、とよく聞かれるのですが、そのたびに答えに詰まってしまいます。中国との掛け橋になろうとする人もいれば、ヨーロッパのファッションを紹介する人もいて、東南アジアの魅力を伝える人もいる。

それが私にとってはアフリカだったとしかいいようがない面もありますし、人々とのつながりなどもできて「自然と導かれた」という感覚も強くあります。



アフリカの魅力って?

ひとことでいうのが難しいので、現地に行ってワクワクすることをいくつか挙げさせてください。

とりわけ大好きなのは市場と食堂と飲み屋とバス。
といっても、いまの時点ではケニアタンザニアガーナしか行ったことがないので、そこでの体験になります。

ナイロビ郊外に、モノを作りながら売っている「ソコ・カリオコ」と呼ばれる市場があります。

そこでキヨンド(サイザル麻を編んだバッグ)の編み方を教わりながら店番も手伝っていたことがあるのですが、ひとつのちょっとした社会、人間模様の縮図のようでした。

ゴハンを食べながらモノを売るおばちゃんたち、座り込んで世間話を延々と続ける客。ミシンを踏みながら服を作っていた人が、足りない材料をほかの店に買いに行き、なぜかケンカを始めたりも。ここでの体験をはじめ、あちこちの市場の話は、いずれ『アフルイカ』でも書きたいと思います。

また、市場に限ったことではないのですが、店では常連でなくてもまずお互いに挨拶し、お母さん元気? お兄さん元気? などと家族のことも聞いたりします。

聞く側がその家族を知っていてもいなくても、一応聞くのが挨拶の一部。そのあと世間話が始まることも多々あって、モノを買うまでに時間がかかるかかる。座り込んでおしゃべりしていく客も少なくないので、誰が店の人で誰が客なのか、誰が誰やら状態になったりもします。

飲み屋での強烈な思い出も、とりあえずひとつだけ、さわりだけ紹介します。これもナイロビ、ダウンタウン。客のカップルがケンカを始めました。

すると近くにいたおばちゃんが歌い出したのです。ラブソングでした。おばちゃんはカップルとは赤の他人、見ず知らずの客です。あとは本編で、ということで。

バスは遅れるのが当たり前、途中で故障やら何やらで止まるのも日常茶飯事。止まった状態で長々と待たされた揚げ句、「あとから来るバスに乗り換えてくれ」といわれても、乗り換えたバスもまた途中で止まったり。

「ウチの前まで行ってくれ」などと誰かが頼めば、寄り道もします。現地の人だって急いでいるときにはもちろん困っています。

でも、とくに長距離バスの場合は楽しくて、隣り合わせた人と食べ物を分け合ったりして、他人との距離が縮まるおもしろい空間になるのです。ぎゅうぎゅう詰めで実際に距離が近過ぎるということもあるんですが。

デコボコの道路でバスが跳ねるたびにリズムに合わせて叫ぶ、若い男の子たちのグループと一緒になったこともありましたし、退屈することがありません。



あなたの中のアフリカとは? 関わりとか、動機とか。

いまは生活の中に染み込んでいます。正確にいえば、アフリカ大陸のアフリカに限らず、「世界の汎アフリカ的なもの」。

一日中アフリカ音楽やレゲエなどを流しっぱなしですし、道具や雑貨や布も日常的に使っています。とりわけ音楽は生きていくのに欠かせないもの。ごはんを食べるのと同じです。血肉になっているような感があります。

そもそもアフリカに関心を持つようになったきっかけが音楽でした。

十代のころからソウルやR&B、ブルースやジャズといったアメリカのブラック・ミュージックを聴いていて、そちら系に強い『ミュージックマガジン』という雑誌を愛読していました。当時その雑誌は、カリブ諸国やアフリカの音楽を紹介するのも、日本ではどの媒体よりも早かったと思います。

'70年代中盤から後半にかけていち早くレゲエ、そしてトリニダードドミニカキューバハイチの音楽。

そのあとアフリカ音楽。当時の編集長だった音楽評論家の中村とうようさんがレコード・コンサートを開いたりもしていました。音楽そのものに限らず、社会的背景なども伝える雑誌でした。

それでアフリカ音楽とアフリカをルーツに持つ音楽を知り、アフリカ社会の一部も垣間見ることができて、自然と馴染んでいきました。

初めて聴いたアフリカの音楽は、カメルーンのマヌ・ディバンゴとナイジェリアのフェラ・クティというミュージシャンのもの。“アフロビート”と呼ばれる、いわばアフリカのファンクです。

さらに数年後にはワールド・ミュージックのブームも来て、日本でもいろいろな地域・民族のアフリカ音楽が聞けるようになり、日本に留学や仕事でやってくるアフリカンも増えていき、私にとってもアフリカがどんどん身近なものになっていきました。

プライベートでケニアに何度も行き来するようになったり、ガーナに遊びに行ったり、在日アフリカンのコミュニティーに関わったりして、いまや生活の大部分という感じになっています。


アフリカの何を書く?

日本のマスメディアを見ていると、アフリカ関連の情報といえばその大半が、内戦に貧困に大自然の野生動物。どれもアフリカの一面とはいえ、あまりにも偏りすぎです。日本人に「アフリカのイメージは?」と聞けば、多くの人たちが、やはりこのような答えを返してくると思います。

実際、私がアフリカに行くとか行ってきたというと、「えっ、戦争取材?!」と驚かれたこともありましたし、「食べる物はありますか」と飢えを心配されたこともあります。

かと思えば、アフリカ=大自然のイメージが強い人には、大自然の中でゆったりできていいなあと、うらやましがられたりすることも多々あります。

学校教育の問題も大きいと思います。いまはどうなのかわかりませんが、私が中学生・高校生だった'70年代には、世界史ひとつとっても欧米中心、あとは中国。

サハラ以南のアフリカが出てくるのは、ヨーロッパ人による大航海時代や奴隷貿易の時代ぐらいで、ほかには'60年代に独立が相次いだことにちょっと触れた程度だったように記憶しています。

また、これはアフリカに限りませんが、大陸などを「“発見”した」という言葉も当たり前のように使われていました。

片や、この数年来、一部の人たちの間ではジャンベ(西アフリカで使われる太鼓のひとつ)がちょっとしたブームで、あちこちでワークショップが開かれたり、公園で練習する人たちが見られたりします。アフリカの布やアクセサリーを扱うエスニック雑貨の店も増えました。

『アフルイカ』では、こういったアフリカ文化に関心のある人たちに向けてさらなる幅広い情報を発信するのと同時に、偏ったアフリカ報道の隙間を埋めていく役割が果たせるようにしたいと思います。

主にお伝えするのは、人々の暮らしとさまざまな文化。とくに音楽、ファッション、食文化には力を入れたいと思います。これらは異文化に興味を持つ大きなきっかけになり得る3本柱だと、実感しているからです。

事実、私を含めて音楽好きからアフリカへの関心が強まった人は多くいますし、アフリカ的なアクセサリーやファッションを取り入れる人たちも増えました。

アジアをはじめとするエスニック料理が浸透したことで各国の食に対する抵抗感も薄れたいま、食を介することでも、アフリカのさまざまな側面を伝えることができると思っています。

また「日本の中のアフリカ」も紹介します。日本に暮らすアフリカンが、アフリカの真の姿をどう伝えたいのか、日本でアフリカンとして生きていくとはどういうことか、などをインタビューなどを通してお伝えします。

そしてアフリカに関わりの深い日本の人々の活動や仕事。幼稚園や小学校を回ってアフリカ文化を広めている人、現地の教育や経済活動などを日本からバックアップしている人、服や小物を買い付けて売っている店の人たち・・・等に登場していただきます。

日本の中のアフリカをお伝えすることで、より身近さや親しみを感じていただければと望んでいます。

アフリカ、アフリカとひとことで言ってきましたが、大陸は広く、国も多く、それぞれの国にはいろいろな民族が暮らしています。『アフルイカ』では、地域や民族を、できる限り特定した表現でお伝えします。
“部族”や“○○族”という言葉も使いません。

また、サハラ砂漠以北の北アフリカを取り上げる予定はありません。サハラ砂漠は海のようなもので、海を挟んだ北と南では異質の文化圏となっているからです。

ただ、西アフリカのムスレムの多い国や東アフリカ沿岸部など、宗教的・文化的に北のイスラム圏と縁が強くて交流のさかんなところもありますので、その場合には随時触れていきます。

私自身は、これまではアフリカについて書くことを避けてきたようなところがあります。たまに音楽や旅に関して雑誌にちょこっと書くことがあった程度で、まとまった仕事はしてきませんでした。

個人的な感情や関心と、編集者やライターとして「パブリックで人々に伝える」ということの、折り合いがうまくつけられず、消化できていない部分が大きくあったからです。

たまに意を決して企画を話してみても、「売れない」の一言で拒否されたり、主旨を変えられそうになったりすることが何度もあって、一時期は「アフリカものはあえてやらない」と決め込んでいたこともありました。

メディア批判のようなこともいってしまいましたが、編集やライターを続けてきた身としては、これまで力が及ばなかったことに悔しい思いも当然あります。

いまでも「消化できた」とは言い難いのですが、最近になって「アフリカについて伝えるための機が熟してきている」という手応えもあり、いろいろな人たちの力も借りて、実現できることになりました。

韓流ブームのおかげで多くの日本人の韓国に対する見方が変ったこと等々を見るにつけ、「次はアフリカだ」と、確信に近い期待も、いまは持っています。

将来的にはアフリカ映画の上映などのイベントとも連動して、ひとりでも多くの人たちにアフリカの多様な側面を伝え、巻き込んでいきたいと思っています。


今回の旅はセネガルとか

好きなミュージシャンにはセネガル出身の人が多く、昔から憧れの地でした。

でも、フランス語が苦手という致命的な問題があったので、行きたい行きたいと口でいうばかりで、なかなか腰が上がりませんでした。まだまだフランス語は苦手ですが、行かなければ何も始まらないと、とりあえず行ってみることにしたという次第です。

目的といえるほどのものはなく、なんとなくブラブラしているだけでも楽しいので、ブラブラしてきます。

セネガルの教育支援(小中学校の整備や図書館づくり、障害児教育など)をバックアップしているNGO「バオバブの会」にも参加しているので、ブラブラのついでといっては叱られそうですが、関連するちょっとした用事も務めてきます。



では、また。

次回はセネガルからお伝えします。

つづく









柳田依子 YANAGIDA Yoriko やなぎだよりこ

編集者、ライター
『家庭画報』、『ミセス』、『鳩よ』、『BRUTUS』、『クレア』、『Hanako』などの雑誌で活躍。
占い、ストレス解消、やさしい心理学、ビジネス書、雑学本など、多数の書籍の構成・取材・文も手がけてきた。



「別冊アフルイカ」ではコンテンツリーダーとして企画参加。
身体に沁み込んでいるアフリカカルチャーをまるごと伝えていただきます。